ワールドクラス・ジャパン“セカイに誇るニッポンのモノ” 〜〈コム デ ギャルソン〉黒の自由 篇〜 【vol.02】
前回のVol.1では、1969年のコム デ ギャルソン誕生から、モード界の伝統や常識という揺るぐことなき旧来の美意識の前に、ファッションの“自由”な表現や捉え方を突きつけたセンセーショナルな大事件“黒の衝撃”までをピックアップ。続くこのVol.2では、日本がバブル景気に湧く1980年代半ば〜90年代までに誕生した5つのブランドを取り挙げる。極東の島国から広がっていった新たな美意識は、世界というフィールドで多様化していくと同時に、より深く鋭く、そして“強さ”に磨きをかけていく。いま改めて、創造者集団・コム デ ギャルソンのクリエイションの根幹にあるモノを探る。
1984年
〈COMME des GARÇONS
HOMME PLUS
コム デ ギャルソン・オム プリュス〉。
1983年に誕生したばかりのインターネットによって、やがて世界中がタイムラグなしに繋がる未来が訪れるなど、誰も予想だにしなかった翌1984年。のちに日本における劇場型犯罪の代表例となるグリコ・森永事件をマスメディアが連日報道し、世界では平和とスポーツの祭典・ロサンゼルスオリンピックが開催されたその年の春。パリメンズコレクションにて〈COMME des GARÇONS HOMME PLUS コム デ ギャルソン・オム プリュス〉がデビューを飾る。
前年に行われたSSシーズン東京コレクション後のインタビューで、「先輩のデザイナーの模倣ではなく、ファッションに対する固定観念を壊してオリジナリティを創っていきたい」と答えた川久保。その言葉を証明するように、当時のメンズで主流だった、いかつくマッチョなスタイルから脱却した緩やかなデザインを提案する。意外な色彩の組み合わせ、素材の扱い方などそれまでのトラディショナルの常識を覆すアプローチは、レディースラインの〈COMME des GARÇONS コム デ ギャルソン〉で女性を性別という足枷から解放したのと同様に、男性を「男とはかくあるべし」という精神的束縛から解き放ったのである。これを当時のメディアは“自由を着る男たち”“戦争をしない男たち”と評した。
以降、メンズクロージングの本質はトラディショナルであるという基本を押さえつつ、ジャケットの裏側の縫製を表に露出させたデザインや、異素材のコンビネーション、パッチワークにフリルなど、その枠組みを超えた多種多様なデザインや技法で、新たな提案をし続けている。中でもアイコンとなっているのが、90年代に登場した「縮絨」。生地をフェルト状に加工をすることで、古着の如き風合いを演出するこの技法は、のちにメンズラインにおける川久保のお家芸の1つとなり、今ではストリートファッションの世界にまで広まった。
ベーシックなデザインを主とする〈COMME des GARÇONS HOMME コム デ ギャルソン・オム〉に対し、万華鏡のようにシーズンごとに変化する川久保の思いが表現された個性派アイテムが数多い。例えば、異素材レイヤードを用いたこのコートもそうだ。レディースのようにゼロからの出発ではなく、スタンダードを変貌、発展させることで、男性社会に足りない“遊び心”を加えたプリュスは、変化を是とする川久保の姿勢が強く顕現したブランドともいえる。
1987年
〈COMME des GARÇONS
HOMME DEUX
コム デ ギャルソン・オム ドゥ〉。
1985年頃から始まった地価の異常高騰はさらに加速化し、銀座では1坪1億円を突破。世はバブル経済の真っ只中にあった1987年。安田生命(現・明治安田生命)がゴッホの名画「ひまわり」を53億円で購入するなど、いつ消えるとも知れないひとときの栄華に浮かれ、利益追求のために24時間戦う日本のビジネスパーソンたちを、海外の人々はエコノミックアニマルと呼び、冷ややかな視線を送っていた。その一方で、女性の社会進出が当たり前のものとなり、体に寸分なくフィットしたボディコンシャスが大流行。女性のワードローブが変わっていった時代に、ビジネススーツラインの〈 COMME des GARCONS HOMME DEUX コム デ ギャルソン・オム ドゥ〉が発足される。
「日本の背広」。この単純明快なキャッチコピーを掲げた広告が、新聞や雑誌に掲載されると、それまで広告をほとんど出さなかったこともあり、一躍業界の話題をさらった。力強い文字と吉田茂をはじめとした、日本人でスーツを粋に着こなしていた人物のポートレイトを大胆に構成されたそれは、日本生産の素晴らしさと、明治〜昭和期にわたって築き上げてきた日本のダンディズム、そしてアイデンテティを世界に示そうするものであった。事実、ウエストの絞りがゆるく、羽織るように着るドゥのスーツは、マッチョズムを基本とする西洋のスーツとは趣きも異なり、まさに日本人のための背広と呼ぶに相応しかった。
また、同年に日本経済新聞に掲載された全面広告では、「個を明確にもち全体の調和に生きながら、内面的に洗練されている精神的エリートの服です」とも謳われている。ドゥのスーツは、ギャルソンの服を纏う喜びを知った大人たちにとって、格好の隠れ蓑でもあったのだ。
2013年SSシーズンモデルのセットアップ「DK-J022」。ジャケットのポケットとパンツのサイドに別生地を当て、ツイストを加えている。また肩パッドを排した、コンフォータブルな着心地は近年の多様化したビズシーンにも対応する。
その後、ブランドは少しずつ変遷を繰り返しながら、2009年には〈ユナイテッドアローズUNITED ARROWS〉の上級顧問である栗野宏文をアドバイザーとして迎え入れ、ブランドコンセプトも「ハンサムな心のためのスーツ」へ刷新。ピッティウォモでのプレゼンテーションを行うなど、より自由なアプローチで現代の男の衣服を提案するブランドとなった。近年では、カジュアルビズやミニマルなデイリースタイルにも対応するアイテムを揃え、〈Dr.Martens ドクターマーチン 〉や〈NIKE ナイキ 〉などとのコラボレーションも話題に。
(→〈Dr.Martens〉に関連する特集記事はこちら)
(→〈NIKE〉に関連する特集記事はこちら)
1988年
〈COMME des GARÇONS SHIRTS
コム デ ギャルソン・シャツ〉。
青函トンネル、瀬戸大橋、東京ドームといった大型建造物が続々と日本中に造られ、夏には韓国でソウルオリンピックが開催。映画館では『AKIRA』や『となりのトトロ』といった、今も名作として語り継がれる作品が上映されていた1988年。『ドラゴンクエストIII』が発売日に長蛇の行列を作り、社会現象になれば、当時の少年たちの心を熱く燃やした『週刊少年ジャンプ』が発行部数500万部を突破。THE BLUE HEARTSが『TRAIN-TRAIN』を歌い、誰もがバブル景気という列車に乗っていた頃、渋谷に集まる有名私立高校生たちの間から、“渋カジ(渋谷カジュアル)”ブームが起こる。
〈LEVI’S リーバイス〉の「501」など、良質な定番アイテムをカジュアルに着こなすこのスタイルは、この年に誕生した〈COMME des GARÇONS SHIRTS コム デ ギャルソン・シャツ〉のスタンスとも合致した。シャツという、ひとつのアイテムだけで成立するブランドを作ろうという発想から端を発し、パターンメイキングを日本で、生産をギャルソン社のフランス法人が手掛ける同ブランド。一言で表すならば“シンプルで上質で一味違うもの”。それでいて全身をギャルソンで固めるのではなく、リアルクローズにも組み合わせられる、いわばギャルソンビギナーが門戸を叩くのに最適なブランドであったといえる。
(→〈LEVI’S〉に関連する特集記事はこちら)
またその一方で、〈COMME des GARCONS SHIRT Forever コム デ ギャルソン・シャツ フォーエバー〉と呼ばれるハイエンドラインも存在する。肌に吸い付くような着心地の上質な素材に、洗練を究めたパターンは、まさにシャツ・オブ・シャツと呼ぶに相応しく、メンズクロージングの王道であるトラッドというスタイルに対する、川久保の強い拘りが感じ取れる。
同ブランドはその後、ビジネス戦略から他のアイテムも展開するようになっていくのだが、このベルト付きシャツのように、本来の佇まいを崩すことなくデザインや生地の色や素材の選定を通して、シャツという定番の可能性を探求し、近世のシャツデザインに影響を与えた功績は大きい。
それから3年後の1991年、ギャルソンは〈Yohji Yamamoto ヨウジヤマモト〉と合同メンズコレクション展「6.1 THE MEN」を開催する。このショーでは俳優のデニス・ホッパーやジュリアン・サンズ、サックスプレイヤーのジョン・ルーリーらがモデルとして登場。普段、映像や音として外殻を捉えていた彼らとはまた違った、チャーミングな姿を見せた。またこの年、バブル経済が崩壊したことにより、メンズクロージングの世界にストリートスタイルが進出するようになっていく。それまでのファッションの中心にあった、デザイナーズブランドを着ることへの憧憬に、サブカルチャー的側面が加わることで、メンズクロージングの世界も大きく変容していくのであった。
1992年
〈JUNYA WATANABE
COMME des GARÇONS
ジュンヤ ワタナベ・
コム デ ギャルソン〉。
前年にバブル経済が崩壊し、低迷化の一途を辿る日本経済。ティーンエイジャーの代弁者・尾崎豊がこの世を去り、暗鬱たるムードが漂いながらも、史上2人目の日本人宇宙飛行士・毛利衛が宇宙に飛び出し、バルセロナオリンピックの水泳200m平泳ぎで、わずか14歳の岩崎恭子選手が金メダルを獲得。人々が先行き不透明な日々の中にも、希望の光を見た1992年。街では、小粋なパリっ子たちのライフスタイルに憧れを抱く若者たちの間で“フレンチカジュアル”が大流行し、〈agnes b. アニエス ベー〉や〈A.P.C. アー・ペー・セー〉などの仏ブランドが人気を集めていたこの年、コム デ ギャルソン社は、発想の転換ともいえる試みを行う。
社内で新たなブランドを立ち上げ、そこに初めて川久保以外のデザイナーを設けることにしたのだ。これに名乗りをあげたのが、当時〈tricot COMME des GARÇONS トリコ・コム デ ギャルソン〉のパタンナーを務めていた渡辺淳弥だった。この若きプロジェクトリーダーは、のちの〈kolor カラー〉デザイナー・阿部潤一や、その妻でのちに〈sacai サカイ〉を立ち上げる阿部千登勢などのメンバーを社内から集め、自身の名を冠する新レディースブランド〈JUNYA WATANABE COMME des GARÇONS ジュンヤ ワタナベ・コム デ ギャルソン〉を立ち上げることとなった。
(→〈sacai〉に関連する特集記事はこちら)
JR両国駅の旧改札口で行われたデビューコレクションのショーは、大きな話題を呼び、翌年にはパリコレにも参加するように。スチールワイヤーやアルミパイプなど、普通ならば服には使われない資材と布を用いて、実験的かつ創造性に富んだコレクションを次々と発表していった渡辺。阿部千登勢が当時を振り返り、「川久保さんの真似ではなく、自分たちにしかできないことを目指していた」と語っているように、彼自身もまたコム デ ギャルソンの看板を背負うデザイナーとしての重積の中で、新たな“未知”を模索し続けていたのである。
時にエレガントに、時にミリタリーにと、シーズンに合わせて大きく変わる渡辺のクリエイション。川久保のそれとは異なる独自の世界観を提示し、いまや彼の名は、川久保 玲、山本耀司という偉大なる先人と並び、パリコレには欠かせない存在となっている。ちなみに同ブランドは、このテーラードジャケットのように、既存のアイテムを解体して自らの解釈で“再構築”したデザインを多く手掛けている点も特徴。これらは精緻なカッティングや素材への探究など、クリエイションを支える高い技術力が可能としたものであるというのは、疑いようのない事実である。
1993年
〈COMME des GARÇONS
COMME des GARÇONS
コム デ ギャルソン・
コム デ ギャルソン〉。
1993年といえば、5月にサッカー「Jリーグ」が開幕し、6月には皇太子徳仁親王(現 今上天皇)と小和田雅子の結婚の儀が執り行われ、日本中が沸いた「雅子さまフィーバー」。10月に行われたサッカーの日本代表対イラク代表戦では、日本がロスタイムの失点でW杯初出場を逃し、のちに「ドーハの悲劇」として語り草に。ファッション界では、繊維企業の倒産が年間1,000件を突破し、東京コレクションも経費節減で縮小化。メンズスーツの低価格化戦争も勃発するなど、アパレルマーケットの不況は深刻なものに。
こうした時代背景の中で、高額なデザイナーズブランドの需要は落ち込み、80年代後半から続く渋カジ人気を追い風に、セレクトショップが急成長。さらにはそのアンチテーゼとして裏原宿系ブランドが生まれる。そんな時代に、先述のコム デ ギャルソン・シャツ同様、フランス法人が運営するレディースブランドとして発足されたのが〈COMME des GARÇONS COMME des GARÇONS コム デ ギャルソン・コム デ ギャルソン〉である。同ブランドは、川久保の好きなエッセンスを落とし込んだコレクションラインでありながら、普段の着こなしにも自然に馴染むのが特徴。いわば彼女が作る“日常的に着られるギャルソン”。
豊富なサイズ展開かつ、シューズやバッグなどフルラインで揃い、フリークの間では“コムコム”という可愛らしい愛称とともに親しまれている。2004年には、1981年から存在していたブランド〈robe de chambre COMME des GARÇONS ローブ ド シャンブル・コム デ ギャルソン〉と統合。現在は日本とフランスにおいて、およそ半々の割合で生産されており、日本生産の他ラインに比べてリーズナブルに手に入るため、欧米にも多くのファンを持つ。
他にはないモノを作るのがデザイナーの仕事であり、また他のブランドではやらない戦略をとることが優位性に繋がる。その上で創造的かつ独自性を貫いたビジネスを実践し、成功させている稀有な存在、川久保 玲。彼女は言う「自分が感じることが何より一番大事なんです。私は服で感じてもらいたいのです」と。ブレないスタンスから生まれるその言葉は“強く”、斬新なクリエイションとも相まって人々の心を揺り動かす。
ラストのVol.03では、2001年からスタートし、様々なブランドとのコラボレーションで常に話題の尽きない〈COMME des GARÇONS JUNYA WATANABE MAN コム デ ギャルソン・ジュンヤ ワタナベ マン〉から、期間限定のブランドとして誕生した〈BLACK COMME des GARÇONS ブラック・コム デ ギャルソン〉までをクローズアップ。創造者集団・コム デ ギャルソンの足跡を追いかける“創作を模索する旅”はまだ続く
(→【vol.03】につづく)
(→【vol.01】はこちら)