ワールドクラス・ジャパン“セカイに誇るニッポンのモノ” 〜〈コム デ ギャルソン〉黒の自由 篇〜 【vol.03】
激動の時代をしなやかに生き抜きながら、その時々で社会へ向けた強烈な一撃を放つ。アパレルブランドの域を超えたといっても大袈裟ではない生き様は、誕生から半世紀を過ぎ去ってなお鮮やかに映る。〈コム デ ギャルソン〉の作り続ける、服以上のナニカ。その一端でも感じてもらえたなら幸いである。
2001年
〈COMME des GARÇONS
JUNYA WATANABE MAN
コム デ ギャルソン・
ジュンヤ ワタナベ マン〉。
2001年。20世紀の少年・少女たちが夢にまで見た、輝かしい“ミライ”。その幕開けは混沌だった。ニューヨーク世界貿易センターを目掛けて続けざまに突っ込んだ2機の旅客機は、まるで映画のワンシーンのように見るものを呆然とさせ、得体の知れない恐怖を刻み込んだ。一方でファッションの文脈を探ると、際立って大きな流行は見られない。“それどころではない”というのが、世界的な見地だったからであろうか。
ともかく、そんな21世紀のはじまりに生を受けたのが〈COMME des GARÇONS JUNYA WATANABE MAN コムデ ギャルソン・ジュンヤ ワタナベ マン〉。パリコレにも参加するメンズラインだが、注目すべきはそのブランド戦略にある。同じく渡辺淳弥がデザインするレディースの〈JUNYA WATANABECOMME des GARÇONS ジュンヤ ワタナベ・コムデ ギャルソン〉がゼロからクリエイトするのに対し、伝統と歴史に裏打ちされたベーシックを念頭に置く。そのうえで、他のブランドとのコラボレーションを取り入れたのだ。
デビュー作となった〈Levi’s リーバイス〉とのコラボレーションを皮切りに、世界中の名ブランドと奏でられる極上のセッション。それはファン層の拡大に寄与するだけでなく、“ダブルネーム”という新しい価値観を浸透させ、メンズアパレル業界全体を刺激した点でも白眉だろう。そしてなにより、同業のライバルと手を取り合ってプロダクトを生み出すという考え方が、不安定で猜疑心の募る時代に一筋の光を見せてくれた。そんな気がしてならないのだ。
2002年
〈PLAY COMME des GARÇONS
プレイ・コム デ ギャルソン〉。
2月にはアメリカのソルトレイクシティにて冬季オリンピックが、5月には初の合同開催となる日韓ワールドカップが開幕されるなど、スポーツの祭典に彩られた2002年は、世間の目がグローバルに広がっていく真っ只中にあったとも言えよう。そのなかで、欧米では記録的な熱波により3万を超える人の命が失われ、モスクワで起きた劇場占領事件のため100人以上の一般市民が犠牲に。グラグラとした世界情勢は、幸福よりも不安を感じさせるに十分だった。
そういった時流を捉えてか、ギャルソンはあえて初めての試みを形にする。「デザインしないこと」をコンセプトに掲げた〈PLAY COMME des GARÇONS プレイ・コムデ ギャルソン〉が登場。ギャルソン初の“ワンポイントブランド”は、ポーランド人デザイナーのフィリップ・バゴウスキーによってデザインされたハートアイコンをアイデンティティとした。と同時に、“遊びましょうか”というブランド名に、実に平和的なニュアンスを宿している。
結果的にこのアプローチは大成功を収め、プレイ・コムデ ギャルソンは日本やヨーロッパを中心にマーケットを拡大。一目でそれとわかるキャッチーなデザインをTシャツやスウェットなどのベーシックアイテムに乗せたクリエイションは、ファストファッションが胎動する00年代初頭において、あらためて先見性を感じさせた。また、サイズ展開をすべて男女兼用としたことでも、時代を先取る鋭さを見せつけている。
2005年
〈eYe JUNYA WATANABE MAN
COMME des GARÇONS
eYe コム デ ギャルソン・
ジュンヤワタナべ マン〉。
地球温暖化防止を促す京都議定書が発効され、ドイツ人の枢機卿ヨーゼフ・ラッツィンガーが新教皇に選ばれ、ベトナム戦争が終結して30周年を迎えた2005年。日本の愛知県では「愛・地球博」が3月から9月まで開かれたが、同じく“アイ”を掲げたギャルソンのニューコレクションも生まれている。といっても、〈eYe JUNYA WATANABE MAN COMME des GARÇONS eYe コム デ ギャルソン・ジュンヤワタナべ マン〉のeYeはクリエイターの目線を意味し、「デザイナーである渡辺の目からみて本当に着たいもの」という意味が込められた。
01年に誕生したコムデ ギャルソン・ジュンヤ ワタナベ マンのセカンドラインに位置するこちらは、同じく他ブランドとのコラボレーションを主武器とする。異なるのは、“ファースト”が毎シーズン強いテーマ性を打ち出すのに対し、“セカンド”はそのスタイルを補うように自由な広がりを見せること。両者がうまく補完し合う形で、絶妙な深みと幅を生み出すのだ。
クリエイションの代表例とも言えるのが、写真のような〈THE NORTH FACE ザ・ノースフェイス〉とのシェイクハンズ。現在もストリートの潮流を担うアーバンアウトドアをいち早く体現し、メンズファッションの新たな扉を開いた。
2007年
〈GANRYU ガンリュウ〉。
多岐にわたるギャルソンファミリーのなかでも、「コム デ ギャルソン」の名を使用しない稀有なブランド。それが〈GANRYU ガンリュウ〉である。デザイナーは丸龍文人。1976年に福岡県で生まれた男は、文化服飾専門学校を経て04年にコム デ ギャルソンに入社し、3年後の07年からガンリュウを担当した。
07年といえば、アメリカのサブプライム問題、原油価格の高騰といった経済的懸念が表面化した年。テロやデモも、引き続き世界各地で巻き起こっていた。かたや、アップル社からiPhoneのオリジナルモデルが発売され、ヤマハが初音ミクを誕生させた年でもある。まるで、鬱屈とした民衆が新しいカウンターカルチャーを生み出すかのように。そしてガンリュウもまた「ポップと前衛とベーシック」をテーマに、独自のカルチャー色を纏ったのである。
デザインの特徴は、身幅や股下にゆったりと余裕を持たせたユニークなシルエット。その根源には、デザイナーの丸龍が幼き頃から心奪われた音楽などのユースカルチャーが潜む。シーズンごとに素材を変えて生み出されたサルエルパンツはその筆頭で、これまでギャルソンとの交わりが浅かった若者の心をもアグレッシブに掌握した。
これまでとは異なる文脈でも、新鮮な血を積極的に受け入れるギャルソン ファミリーの懐の深さ。ガンリュウはその証左とも言えよう。なお、同ブランドは16年に終了。それに伴い丸龍もコム デ ギャルソンを退社したが、17年には自らのブランド〈FUMITO GANRYU フミトガンリュウ〉をスタートさせている。
2009年
〈BLACK COMME des GARÇONS
ブラック・コム デ ギャルソン〉。
全3回でお送りしたギャルソンの系譜も、これにて結びだ。09年生まれの〈BLACK COMME des GARÇONS ブラック・コム デ ギャルソン〉をもって、クロニクルの終章としたい。
その前夜となった08年には、世界中で連鎖的経済危機を招いたリーマンショックが発生。その混乱のさなか、“キング・オブ・ポップ”マイケル・ジャクソンの急死や桜島の噴火など、09年にも数多くのエマージェンシーが発動している。そんな実状に対応すべく、ブラック・コム デ ギャルソンは期間限定のブランドとして誕生。企画から実現までをスピーディに行い、通常とは異なる生産体系を作り上げることでコレクションラインよりも手軽な価格帯を実現した。
ブランドのメインカラーは、名前が指し示すようにブラック。ギャルソンにとって特別な意味を持つ“黒”を再解釈し、シャツやパンツなど幅広いバリエーションで展開する。当初は若年層をメインターゲットにスタートしたものの、往年のファンからの反応も上々。期間限定となされながら、現在もブランドは継続している。デザイナーとしてのみならず経営者としても優れた川久保らしいアプローチは、不況にあってひときわ輝いたのだ。
ギャルソンの主要カテゴリーをアイコンの“黒”に縛り、その誕生順に追ってきた今連載。お楽しみいただけたであろうか。川久保が黒に込め、追い求めたもの。自由。それは究極の目標であり、何者にも塗りつぶされない強さの象徴でもあるのだろう。
2019年、ブランドは記念すべき50周年を迎えた。しかし、他社のような特別な催しは開催せず、変わらぬスタンスで服づくりに邁進するコム デ ギャルソン。いかにもギャルソンらしい、そして川久保らしい考え方は、きっとこれからも我々に多くの刺激と気付きをもたらしてくれるはずだ。
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