〜巡る時代をカルチャーと共に〜 〈リーボック〉の歩みも千里【前編(〜1989年)】
いつだって新たな一歩を踏み出す瞬間、我々の足元には相棒となるスニーカーがあった。だが、令和のシーンは豊富すぎる選択肢に尽きせぬセレクトのお悩み。ならば数年来のハイプ・イズ・ベストな感覚をリセットし、今夏は定番に見出そうモノホンの価値。そんな時にこそバック・トゥ・クラシック。向ける視線の先は、意外や〈Reebok リーボック〉。前・後編に分けて語られるのは、巡る時代をカルチャーと共に歩んだ千里のハナシ。
コロンブスの卵的発想が生んだ、
世界最古のスニーカー。
さて、名前は知っていても、どこのウマの骨だか生まれも育ちも知らぬ存ぜぬという読者も多いかと。そこでまずは、ブランドの歩みを回顧イン・ダハウス。歴史の始まりは1895年、イギリス・マンチェスター郊外の小さな町・ボルトンへと遡る。産業革命時に繊維産業で躍進を遂げるも、その後の歴史の中で意気消沈したこの土地に、J.W.(ジョセフ・ウイリアム)フォスターという1人の青年がいた。走るのが趣味で地元のランニングクラブに所属する彼は、「どうしたらもっと速く走れるのか?」と日々思考し続け、試行錯誤の末に“グリップを良くするなら靴底に釘を打ち付ければいい”というコロンブスの卵的発想に到達する。
当時はまだ、シューズを街履き用とスポーツ用で区別するという概念がなかった時代。彼が生み出した画期的なハンドメイドの陸上用スパイク「ランニングパンプス」は、瞬く間に地元ランナーの間で評判に。ちなみに同モデルこそ、世界最古のスポーツシューズの1つと言われ、スニーカーの実質的な元祖とされている。これ、スニーカー好きなら知っておいて損のないウンチク…と、話がレーンを外れたのでトラックへと戻す。フォスターはこれを契機に、自身の名を冠した「JWフォスター社」を1900年に設立。黎明を告げたばかりのスポーツシューズの世界に本格的に足を踏み入れ、同社の名はイギリス中のアスリートの間を瞬く間に駆け巡っていった。
1924年、轟く名声はさらなる栄光を呼び込む。パリ五輪で同社のシューズを履いたハロルド・エイブラハムスとエリック・リデルの2人が金メダルに輝いたのである。2人の走りによって、その機能性の高さが改めて証明されたJWフォスター社のプロダクト。このエピソードは、映画『炎のランナー』として1981年に公開され、さらに多くの人々にその名を知らしめる一大契機となったのは言うまでもない。
かくして加速度的にスポーツシューズ界に浸透していく真っ只中の1958年、またしても変化が訪れる。フォスターの孫であるジョセフとジェフリーが社名を「Reebok リーボック」に変更したのだ。ウシ科の鹿に似た動物・ガゼルのアフリカでの呼称「リーボック」に由来し、その俊敏さにインスパイアされた新たな名と共にリスタートした同社は、これ以降ランニングカテゴリーに留まらず、総合スポーツシューズメーカーとして大きな成長を遂げていく。
「Aztec アズテック」
ランニング業界の権威からも、
最高評価五つ星を獲得。
では、ここからは傑作アーカイブ群と共に、ブランドの足跡を辿っていくとしよう。はじめの一歩は、1979年登場。3色のカラーパレットとナイロン×スウェードの掛け合わせが放つクラシカルな雰囲気は、オールドファン曰く“これぞリーボックの象徴”。ランニングモデルの傑作とくれば「Aztec アズテック」。
現代的感覚からすれば、ローテクに思えるが侮るなかれ。硬度の異なる素材で構成したデュアルデンシティミッドソール、交換可能なカーボンラバーヒール、パーフォレーションを施したポロン製のクッションインソールなど、その実態は、画期的機能を搭載した当代随一のハイスペックモデルであった。当然、シリアスランナーから絶大な支持を得て、米国ランニング業界の権威でもあった『Runner’s World ランナーズワールド』誌では最高評価の五つ星を獲得。当時の広告に記載された“ONE STEP AHEAD(一歩先を行く)…”のキャッチフレーズは、同モデルへの確固たる自信の表れであった。
また、アズテック誕生前夜の1978年は、リーボックの歴史に一大転換期として記録されている。NSGA(ナショナル・スポーティンググッズ・アソシエーション)のショーで、アメリカ人のアウトドア用品ディーラーであるポール・ファイヤーマンが、北アメリカ大陸(アメリカ、カナダ、メキシコ)におけるリーボックの販売権を獲得したのだ。この若き実業家の手により、同社は世界最大のスポーツシューズマーケットであるアメリカへ本格的進出を果たすための足掛かりを得た。
「FREESTYLE フリーススタイル」
怪我の功名から生まれた、
エレガント&コンフォータブル。
先述したリーボックの北アメリカ大陸における販売権には、同地の消費者趣向を製品に反映する契約も含まれていたという。これを受けてファイヤーマンは、当地のマーケットを鋭敏に嗅ぎ分け、未踏のジャンルに一歩を踏み出す。
1980年代は、〈NIKE ナイキ〉や〈adidas アディダス〉など他メーカーが、国際的な評価基準となっていた『ランナーズワールド』の五つ星獲得のため、ランニングシューズ開発に心血を注ぎ、猫も杓子もジョギング熱に浮かされていた時代。彼はその最中に、当時まだブームの萌芽に過ぎなかったエアロビクスをターゲットに据えたコンフォートシューズに、市場開拓の余地を見出したのである。こうして1982年、「FREESTYLE フリースタイル」が誕生した。
薄さと柔軟さから衣料用に使われる天然皮革・ガーメントレザーを使用し、包み込むような履き心地を実現。さらにアンクル部分を固定するダブル ベルクロ ストラップを装備したハイカットフォルムが、女性の脚を細く美しく見せると、これが思わぬ大ヒット。時同じくして、ジョギング人気の牽引者だったジム・フィックスが日課のジョギング中に心筋梗塞で他界すると、あれほどの熱も一気に下火に。入れ替わる形で著しく成長を遂げていくフィットネス産業の中、この真っ黒なガラスの靴で世に見出されたリーボックは、存在感を強めていった。
ここでウンチクを1つ披露しよう。当時のスニーカーに使われていたレザーは硬く、フリースタイルも同様の素材で製造されるはずだった。だが、工場の手違いから仕上がってきたサンプルは薄くソフトなレザー製。ブレーンなルックスを想定していたはずが、トゥ部分のシワも目立ち、不良品とさえ呼べる代物だった。ところがこれが、バレエシューズのようにシンプルでエレガントな様相を呈し、かつ足にフィットすると高評価を得て、そのまま商品化。まさに怪我の功名だが、この嬉しい誤算に難色を示したのは、むしろミスを犯した工場サイド。シワを意図的に強調させる技術を研究せざるを得なかったというから、世の中どう転ぶか分からない。
ウンチクついでに、もう1つ。このフリースタイルを日本で初めて販売したのは、以前に紹介した〈Needles ニードルズ〉のデザイナーの清水慶三だとか。当時、彼がバイイングしていたアメカジセレクトショップ「Redwood レッドウッド」でも仕入れた当初は全く反応がなく、「こんな靴は絶対に売れない」と仕入れを反対していた部下の鈴木大器(のちの〈ENGINEERED GARMENTS エンジニアドガーメンツ〉デザイナー)とケンカになるも、とある人気ミュージシャンのMV効果で瞬く間に人気商品に。さらには〈Yohji Yamamoto ヨウジ ヤマモト〉の山本耀司が買っていく姿を見て興味が出た鈴木。隠れて試着しているのを清水に見つかり、その魅力を認めて和解。今では笑い話となっているが、当時の評価とガーメントレザー特有の“履いてこそ分かる魅力”を物語る、貴重な証言でもある。
(→〈Needles〉に関連する特集記事は、こちら)
こうして1980 年代半ばには、10億ドル規模のマーケットへと成長したエアロビクス業界を早くから開拓していたリーボックは、追随する他社を大きく引き離し、ほぼ独占することに成功。フリースタイルはその後、オフィスワーカーの通勤用シューズとしても人気を博し、現在もローカットの派生版「PRICESS プリンセス」と合わせて、リーボックの定番モデルの座をキープしている。
「CLASSIC LEATHER クラシックレザー」
とんねるずもステージで着用、
スタイル不問の汎用性。
フリースタイルで得た素材の知見を活かし、アズテックのようなハイパフォーマンスなシューズをガーメントレザーで製作してみる。この試みによって1983年、スタイル不問の汎用性を備えたランニングシューズ「CLASSIC LEATHER クラシックレザー」が生まれた。
定番や名作を意味する“CLASSIC”というモデル名は、当時存在したユーテリティー性の高いラインに属していたことに由来。その名の通り、オンロード/オフロードを問わず高いグリップ性能を発揮するだけでなく、クリーンなデザインはあらゆるファッションに高い親和性を発揮。これにより、スタイルに敏感なユニセックスの顧客層を中心に、“日常的にスニーカーを履きたい”という消費者の意欲を掻き立てることに成功した。かように運動靴に過ぎなかったスニーカーを、ファッションアイテムへと押し上げた功績はあまりにも大きい。
その後の1990年代後期には、ストリートで影響力のある様々なミュージシャンとのコラボレーションモデルもリリースし、2000年以降は、よりファッション感度の高い層からもプロップスを得るべく、上質な素材を用いたハイエンドなモデルが登場。こうした挑戦が実を結び、いまなお多くの愛用者を擁する定番へと成長を遂げた。シンプルで流行に左右されないタイムレスなデザインは、まさに傑作と呼ぶに値する。
余談だが、お笑い芸人の木梨憲武が、とんねるずのコンサートでステージに立つ際に着用していたのもこのモデルだったそう。本稿で取り上げたのも、ノリさんが着用していたであろうオリジナルモデルに、限りなく近い雰囲気の復刻版。彼らの成功を文字通り足元から支えたのが同モデルだったと考えるならば、まさに「リーボックのクラシックレザーのおかげでした」…みたいな。
「CLASSIC CL NYLON クラシックナイロン」
名作をデザインベースに、
より軽さを追求した意欲作。
次に取り上げるモデルの登場は、翌1984年。もはや御家芸となっていたガーメントレザーをあえて使わず、走行時のスピードにも影響する軽量性にステータスを振った意欲作「CLASSIC CL NYLON クラシックナイロン」が、ランニングカテゴリーよりリリースされた。クラシックレザーの開発背景を鑑みるに先祖返りにも思えるが、こちらも汎用性の高いデザインからタウンユースで履けるシューズとして人気を博した。同社のスニーカーは、もはやスポーツという枠組みに捉われぬ存在となったのである。
耐久性と軽量性に優れたナイロン素材をベースに、スウェード素材で部分的に補強を施されたコンビネーションアッパーと軽量なソールが実現した、軽やかな履き心地は折り紙付き。都会的なグレーのカラーパレットに挿し込まれたホワイトが、懐かしくもフレッシュな雰囲気を演出する。
同年、ファイヤーマンは大成功を収めたリーボックを、創業者一族のフォスター兄弟から買収。ビジネスの中枢をアメリカへと移し、完全な米国企業として新たなフェーズへと移行。これを機にさらなる人気を獲得していくこととなる。
「WORK OUT ワークアウト」
フィットネスからスケートまで、
その全てに対応する。
同じく1984年、世の春を謳歌していたフィットネスムーブメントの真っ只中に、また新たな傑作が産声を上げる。あらゆるワークアウトに対応するクロストレーニング専用モデル、その名もド直球の「WORK OUT ワークアウト」だ。フィットネスシューズの金字塔であるフリースタイル同様、アッパーには柔らかく足を包み込むガーメントレザーを使用。安定したフィット感と高いサポート性を約束するサイドのH型ストラップはデザインアクセントとしても機能しながら、着用者に望外のパフォーマンス性能を提供する。
まずはフィットネス文脈で語ったが、90年代にストリートで青春を過ごした世代にとっては、当時のスケートシーンと紐付いて覚えている人も多いはず。当時のトップスケーターの1人であるカリーム・キャンベルは、その耐久性と履きやすさに魅了され、名作スケートビデオ『Trilogy』をはじめ、様々なメディアで愛用する姿を披露。スケートシューズとしての潜在能力を世に知らしめるスポークスマンとなった。
ニュースクール・ムーブメントの中心的な役割を担っていた彼のB-BOY全開な着こなしと、クールなライディングスタイルにもよくハマっていた本モデル。当時の彼から影響を受けた「DGK ディージーケー」や「PALACE SKATEBOARDS パレス スケートボード」といったブランドがコラボベースに採用しているという事実も、そのスケーター人気の高さを証明している。本稿で紹介するのは、耐久性を高めてアップデートされた「ワークアウトプラス」という後継モデルとなる。正直ほぼ見た目の差異はないので、ファッションとして雰囲気を味わうならコチラで十分かと。
「CLUB C クラブ C」
あの〈シュプリーム〉クルーも
愛用しているテニシュー。
スニーカー史を紐解くと、本来の用途以外で重宝されるモデルが散見される。例えば、ナイキの〈AIR JORDAN 1 エア ジョーダン1〉や「DUNK ダンク」。ともに本来はバスケットボールシューズだが、耐久性と運動性の高さからスケーターの愛用者が続出し、ミクスチャーカルチャーの嚆矢ともなった。ここで紹介する「CLUB C クラブ C」もまた、1985年誕生のテニス専用コートシューズでありながら、その1つに数えられる。
デザインを簡潔に表すならばシンプルそのもの。当時のテニスシューズの不文律であるクリーンなホワイトカラーのアッパーには、しなやかなガーメントレザーを使用し、足を包み込む抜群のフィット感。内側のライニングには、吸水性に優れたテリー(タオル)素材を用いることで、テニスプレー中に自身の汗で足を滑らせる心配も難なくクリア。ソールも優れたグリップ性能と耐久性を発揮し、高いパフォーマンス力を求めていたテニスプレーヤーたちのニーズを満たし本作は、当然の如く定番の仲間入り。
また一方で本作は、ワークアウトと同様の理由からスケーターのファンが多いことでも知られ、「SUPREME シュプリーム」クルーが着用する姿も度々目撃されている。ちなみに発売当初は「CLUB CHANMPION クラブチャンピオン」という名前で、現モデル名の“C”はこの「CHANPION」の頭文字を継承している。オリジンへのリスペクトと同時に“ラフに履けて調子が良い”という、スケーターならではの観点も込められているように思えてならない“C調”な1足。そう思えば、爽やかなホワイト&グリーンの配色は、夏の海にもよく似合いそうだ。
「BB 5600」
オンコートとオフコートの両方を賑わせた、
ブランド初のバッシュ。
ここまでランニング、フィットネス、クロトレ、テニスとカテゴリーの幅を順調に広げてきたリーボック。1986年には、新たにバスケットボールのコートにも足を踏み入れる。当時ブランドの拠点となっていたのが、マサチューセッツ州ボストン。かの地をホームとするNBAチーム、ボストン・セルティックスに所属し、ディフェンスの名手として知られたデニス・ジョンソンと、野球とバスケットの二足の草鞋で活躍したダニー・エインジの2名に満を持して提供されたのが、この「BB 5600」である。
アッパー素材には、もはや取り入れないワケがないほどの定番となったガーメントレザーを贅沢に使用。ヒールからアッパー中央にかけて配置された特大の補強パーツは、シューレースを締めることで左右のステップ時やストップ&ゴー時に安定性を発揮する。ブランド初のバッシュとは思えないほどのパフォーマンスモデルとしてコート内を賑わせたBB 5600は、オフコートにおいても人気の的となった。
なお、リーボックは時同じくして、「BB4600」「BB6600」という2種のハイカットモデルを市場に投入。耐久性に優れたアウトソールを搭載し、ストリートボーラーの支持を集めた前者に対し、オフコートで人気を博したのが後者。このBB6600は、【前編】のラストを飾る“あのモデル”の原型となった。
「ALIEN FIGHTER エイリアンスタンパー」
エイリアンならずとも、
ノドから手が出るヨダレも垂れる。
そいつが我々の前に姿を現したのは、爽やかな汗が飛び交うスポーツのフィールドでなく、血と叫声、そして謎の宇宙生物の体液にまみれた銀幕の世界であった。1986年に全米公開された、SFホラー映画の傑作『エイリアン』の続編『エイリアン2』。この劇中でシガニー・ウィーバー演じる主人公エレン・リプリーが着用するシューズこそが“あのモデル”こと「ALIEN FIGHTER エイリアンスタンパー」である。
ベースモデルとなったのは、先ほども触れたBB6600。劇中で着用されたプロップは、ふくらはぎまで覆うブーツ型のハイカットタイプだが、実際に発売されたのは、劇中で医務担当アンドロイド(合成人間)ビショップが履くミッドカットタイプ。当時プロモーション用の別注モデルとして、アメリカの大手スニーカーチェーン「footlocker フットロッカー」が少量発売したものが、90年代のスニーカーブーム時には“幻のモデル”と呼ばれるほどマニア垂涎のお宝に。
その人気は、2000年にはインディーズレコードレーベルを運営する東京・下北沢の「1138 イレブン サーティエイト」が「20世紀FOX」のライセンスを得て、復刻モデルを製作したほど(こちらは残念ながらリーボックメイドではない)。同作は、劇中でリプリーが勤務する日系企業「ウェイランド湯谷社 WEYLAND YUTANI CORP.」のロゴと「elvn38 イレブンサーティエイト」のロゴが入ったもので、その出来の良さは今でも語り草となっている。
しかし、ここで紹介するのはまた別物。2019年に映画公開40周年を記念し、本家リーボックからリリースされた復刻モデルだ。先述したアンドロイドのビショップが着用していたことにちなみ「ALIEN FIGHTER BISHOPS エイリアン ファイター ビショップス」というコードネームを拝領。アッパー素材は上質なエイジドレザー。最大の特徴でもある甲部の大型ベルクロが、レトロフューチャーな雰囲気に拍車をかける。なお、2016年には映画の舞台でもある惑星名にちなみ、全世界426足限定でリプリーモデルも発売された。ともにファンにとっては、エイリアンならずともノドから手が出る1足となっている。
時計の針はやや進み、迎えた1989年の年末商戦。リーボックは画期的なシステムを搭載したバスケットボールシューズを投入する。その名は「THE PUMP ザ・ポンプ」。シュータン上部に配されたバスケットボール型コンプレッサーを押すことで、アッパー内部の空気室に空気を注入し、シューズのフィット感を増すという未来的なフィッティングテクノロジーは、新たな時代の幕開けを告げた。
物語は【後編】へと続き、いよいよ迎える1990年代。これまで一歩一歩確実に歩みを進めてきたクリエティビティが、技術革新と共に様々なカルチャーと密接にリンクしながら大きく進化していくこの時代。リーボックは、誰も見たことがないような驚きに満ちた傑作シューズの数々を、世に送り出していくのであった。
(→【後編(〜1990年)】は、こちら)