スポーツシューズとしての正史ではなくストリートで選ばれたスニーカーの歴史
スニーカーの隆盛をつくったのは、今もよく名が知られているReebok(リーボック、創業1900年)、CONVERSE(コンバース、同1908年)、adidas(アディダス、同1949年)、VANS(ヴァンズ、同1966年)、NIKE(ナイキ、同1968年)、NEW BALANCE(ニューバランス、1960年代にスポーツ業界に参画)などのブランド、そしてそれらのブランドのプロダクツを支持して愛用し、流行を生み出した各時代の若者たちだ。
街中にたむろする若者たちから自然発生的に生まれたストリートスタイルを、時代を追って詳細に解説した書籍『ストリート・トラッド〜メンズファッションは温故知新』の著者であり、雑誌『smart』の元編集長、佐藤誠二朗氏が、スニーカーとストリートスタイルの関係に迫る。
1950年代後半、アイビーボーイズが
街でもスニーカーを履きはじめた。
スニーカーとはもともと、「音を立てずに忍び寄る者」という意味を持つ言葉。今さら正面切って説明するのもやや気が引けるが、基本的に布やレザー地のアッパーとゴムやウレタン製のソールを持ち、紐やベルクロあるいは独自開発されたシステムによってフィット感を調整できる、運動用の靴である。
スニーカーの始まりについては二つの説があり、いまだに好事家の間では意見が分かれている。ひとつは、1893年に開発されたボート競技用のシューズが元祖であるというもの。もうひとつは、1895年に陸上選手のジョセフ・ウィリアム・フォスターが自作したスパイクシューズを始祖とするというものだ。ジョセフは1900年にJ・W・フォスター社を設立しスパイクの研究開発を継続、後に〈Reebok リーボック〉社へと発展している。
スニーカーは本来、スポーツをする時に履くシューズ。スポーツシーンで用いられたスニーカーの歴史を紐解けば、様々な逸話を発見することができるだろう。だが、ここで我々が追いたいのは、スポーツシューズとしての正史ではない。スニーカーが当初の目的から離れ、若者たちのファッションの一環として街で履かれるようになった経緯に焦点をあてたいのだ。
スニーカーをデイリーユースの靴として選んだ最初の若者は、1950年代後半頃のアイビーボーイだった。アイビーのカジュアルスタイルは無数のバリエーションを生み出したが、若者らしく清々しいスポーツウェアから転用した服装が多かったことでも知られている。アイビーリーグの学生たちは、テニスシューズやバスケットシューズ、それにヨットマンたちの履物であったデッキシューズを、キャンパスや街で履きこなすようになった。
(→アイビーに関する記事は、こちら)
特に1935年に誕生しデッキシューズの代名詞的な存在でもあった〈TOP-SIDER トップサイダー〉のスニーカーは、オーセンティックで上品な佇まいがアイビーボーイたちの琴線に触れた。〈CONVERSE コンバース〉のバスケットシューズである「ALL STAR オールスター」や1970年代になってアメリカ市場に進出した〈adidas アディダス〉の「Stan Smith スタンスミス」など、シンプルで品のいいテニスシューズも、アイビーの間では人気が高かった。
アメリカ東部でアイビーが登場したのとほぼ同時期の1950年代後半から1960年代中頃、西海岸側の南カリフォルニアで高まったサーフィン熱は、この地に新しいカルチャーとファッションを育んだ。オープンカラーシャツやTシャツにショートパンツを合わせ、スニーカーを素足に軽くつっかけるラフなスタイルもそのひとつである。
サーファーの間での一番人気は、シンプルで脱ぎ履きしやすいデッキシューズだった。1966年にはそんなサーファーの需要に応え、カリフォルニア州のアナハイムで新興のスニーカーブランド、〈VANS ヴァンズ〉が誕生。初年には傑作として名高い「AUTHENTIC オーセンティック」がリリースされている。
1970年代になると、サーファーの間でスケートボードの人気が沸騰。サーフィンの技を応用したトリックも開発され、スケーターという新しいカルチャーが生まれる。カリフォルニアのヴェニスビーチでは、サーフィンチームであるゼファーから分離する形で、スケートボードチームZ-BOYSが結成され、その技巧の高さとスマートなスタイルから注目を浴びるようになる。
この頃のスケーターファッションは、動きが取りやすいようにややオーバーサイズ気味を選んだTシャツやデニム、ショートパンツ、そしてネルシャツといったサーフィン文化の影響下にあった。Z-BOYSをはじめとするスケーターの足元には、常にVANSのスニーカーが履かれていた。シンプルでどんな服装にも合うデザインに加え、丈夫なアッパーとグリップ力の強いソールがスケートに最適だったのだ。
Z-BOYSの主要メンバーであるトニー・アルバは、激しいスケーティングの衝撃に耐えられるよう、オーセンティックの履き口に綿入りパッドを入れるという独自のカスタムを施して履いていたが、VANSは1976年、そのアイデアを取り入れた新商品、「ERA エラ」を発売する。また、翌1977年には、耐久性を上げるためアッパーのつま先とかかと部分にレザーを組み込んだ、「OLD SKOOL オールドスクール」という型も発売。VANSのスニーカーのイメージは、サーファーからスケーターのためのものへと変化していく。
各年代のストリートスタイルで
熱く支持されたスニーカー。
同じく1970年代中頃に登場したニューヨークおよびロンドンのパンクスの足元も、スニーカーがメインだった。パンクスというとどうしても、〈Dr.Martens ドクターマーチン〉のブーツや〈GEORGE COX ジョージコックス〉のラバーソールなど重厚な靴を思い浮かべがちだが、金がない当時の若きストリートパンクスのほとんどは、高価なブーツや革靴ではなくスニーカーを履いていたのだ。人気が高かったのはCONVERSEのオールスターやVANSのオーセンティック、オールドスクールなどである。
(→関連する記事は、こちら)
1970年代後期に、アメリカでプロバスケットボールリーグ・NBAの人気が高まると、各シューズメーカーはこの機に乗じ、新開発のバスケットボールシューズを大々的に展開するようになる。1984年、〈NIKE ナイキ〉はNBAの大スターであるマイケル・ジョーダンのシグネチャーモデル、「AIR JORDAN エア・ジョーダン」を発売。当時としては高い価格がつけられたモデルであったにもかかわらず、アメリカの販売店では発売日に長蛇の列ができるほどの人気だったという。以降、ハイカットのバスケットシューズは、アメリカの若者の間で、ニューモデルの発売が待ち焦がれられるようなスタンダードな存在になっていく。(→関連する記事は、こちら)
同じく1970年代後期、スケートボードの人気も上昇していき、スケートシューズも一層発展していく。VANSは「OFF THE WALL オフ・ザ・ウォール」というスケート専門のラインを発足させ、「SK8-HI スケートハイ」というスケートボードに特化したハイカットスニーカーを発売。1980年代中頃になると、スケーターの多くがBGMとしてスラッシュメタルを選んだため、そうした音楽の支持者の間にもVANSのスケートハイが広まっていく。
同じ頃、パンクのエクストリーム版であるUSハードコアの間では、〈adidas アディダス〉の「CAMPUS キャンパス」やVANSのオールドスクールに人気が集まっていた。こうした音楽系のストリートスタイルは、カリスマ的なミュージシャンのスタイルを模倣することからファッションが確定していくものだ。
時代は少し飛び1990年代、白人ヒップホップの草分け的な存在であるビースティ・ボーイズがメジャーになると、彼らが愛用していたadidasのキャンパスも一挙に人気スニーカーになっていく。話は少々マニアックな領域に入っていくのだが、デビュー当時はハードコアバンドだったビースティ・ボーイズのメンバーは、1978年にデビューした黒人によるUSハードコアのオリジネーターであるバッド・ブレインズを敬愛していたことから、同じイニシャル(B.B.)のバンド名をつけたと言われている。そしてadidasのキャンパスはバッド・ブレインズのフロントマンであるH.R.の愛用スニーカーでもあったのだ。おそらくビースティ・ボーイズは、バンド名だけではなくスニーカーも、先輩のスタイルをサンプリングしていたのだろう。
一方、1980年代中頃になると、ヒップホップの人気もにわかに拡大。Bボーイファッションの象徴となったスニーカーブランドはやはりadidasだった。ヒップホップグループのラン・DMCは、ゲットー(当時の下層階級の黒人やプエルトリカンの居住区であるニューヨーク・ハーレム地区の俗称)のストリートギャングスタイルそのものでステージに上がり一躍メジャーになったが、メンバー全員が履いていたのは、紐抜きのadidas「SUPER STAR スーパースター」だった。1986年のシングル曲『マイ・アディダス』が演奏されると、オーディエンスは自分のadidasを脱いで振りかざし、レスポンスするようになった。
ムショ帰りであることが自慢の種となるギャングスタイルのヒップホップカルチャーでは、刑務所での服役スタイルがしばしばファッションに引用されるが、刑務所では逃走防止のためにスニーカーの紐が抜かれる。そのスタイルを模したRun-D.M.C.の紐抜きスーパースターを当時の若者は一度真似し、あまりの履きにくさにやはり紐をそっと元どおりにしたものだ。
そして1990年代初頭、ファッション界を大きく揺すぶるカルチャーが登場する。グランジだ。グランジスタイルのスニーカーといえば、ニルヴァーナのカート・コバーンが愛でたCONVERSEの「JACK PURCELL ジャック・パーセル」がまず想起されるだろう。カートは、ステージでも取材でもプライベートでも、とにかく頻繁にジャック・パーセルを履いていたので、グランジ=ジャック・パーセルという図式が確定する。だが実は、カートは同じCONVERSEのオールスターや「ONE STAR ワンスター」もよく履いていた。
カート・コバーンがスターになると、そのスタイルを真似する者が増殖し、スニーカー界にはひと昔前のローテクスニーカーであるCONVERSEの一大ブームが到来。だが、同じ頃、CONVERSEとは対極にある近未来的なハイテクスニーカーのブームの兆しも見えはじめていた。
90年代、日本の若者が
世界のスニーカーブームを牽引した。
スニーカーのローテクとハイテクの分岐点は、NIKEが1987年に発売した初代「AIR MAX エアマックス」だと言われている。ナイキが独自に開発した、エアを視認できるクッションをソールに施したデザインで、ハイテクスニーカー市場の開拓者となったモデルである。
カート・コバーンが死去し、世のグランジ熱が一気に冷めた1994年頃になると、CONVERSEのローテクスニーカーに代わり、NIKEを中心とするハイテクスニーカーが盛り上がりはじめる。この頃、スニーカーはアメリカ以上に日本の市場が熱く、日本の若者が世界へ流行を発信するようになっていた。日本のスニーカーブームを牽引したのは、NIKEのエアマックスと「AIR FORCE1 エア・フォース・ワン」およびエア・ジョーダンシリーズである。
当時の日本のストリートシーンに強い影響を及ぼしていたのは、アメリカのヒップホップ文化だが、当地のBボーイは、ゲットーから成り上がって裕福になったことをアピールするという黒人特有の精神性をそのカルチャーの根幹としていたため、洋服やスニーカーはなるべく新品のような綺麗さを保って身につけることがクールとされていた。これを模した日本の若者の間でも、真っ白なエア・フォース・ワンを履くのがステイタスとなった。
エアマックスはランニングシューズだが、エア・フォース1、エア・ジョーダンはいずれもバスケットシューズである。他にも人気となったスニーカーの大部分はバスケットボールものであった。理由は当時のアメリカの若者のスタンダードなスニーカーであったということに加え、1992年のバルセロナオリンピックでNBAのスーパースターで構成されたドリームチームが活躍し、バスケットに注目が集まったこと。そして大人気漫画の『スラムダンク』が1993年にアニメ化されたことによる影響が大きかったと考えられる。
そしてもうひとつ、この頃にブレイクしたスニーカーとして忘れてはならないのが、Reebokの「INSTA PUMP FURYインスタポンプフューリー」(通称・ポンプフューリー)である。シューレースがなくても足にフィットする「The Pumpテクノロジー」を搭載した画期的なポンプフューリーは、その斬新な見た目とはき心地によって、当時の若者の心を鷲掴みにした。
1995年頃の日本のストリートファッションの最前線には、常にヴィンテージデニムなどの古着とハイテクスニーカーがあった。1995年に発売された「AIR MAX95 エアマックス95」の人気は異常で、特に人気のあった通称「イエローグラデ」はあまりの品薄から、30万円ものプレミア価格で売る店も出現した。「エアマックス狩り」と呼ばれる盗難・強奪事件が頻発し、一般メディアも注目。若者のスニーカーブームが、社会問題として取り上げられるようにまでなってしまった。(→関連する記事は、こちら)
1996〜97年になると、〈A BATHING APE ア ベイシング エイプ〉を中心とする裏原宿ブランドのブームが最高潮に達する。裏原宿のブランド服によく似合うシューズとされたのもまた、バスケットシューズだった。引き続き人気のNIKEのエア・ジョーダンやReebokのポンプフューリーに加え、1985年に発売されたNIKEの標準的なバスケットシューズ、「DUNK ダンク」も注目されるようになる。
主に学生用のバスケットシューズとして販売されたダンクは当初、一般にはさほど認知が広まらず、短期間で製造を終了していた。ところが1980年代後半、その耐久性に優れたレザー製の仕様がスケーターに注目され、にわかに脚光を浴びるようになったのだ。新品の在庫がなくなると、ヴィンテージ市場で人気が爆発。コレクターが血眼になって探すようになり、価格も高騰していった。そして日本のスニーカー熱が最高潮になっていた1999年初頭には、待ち望む市場の声に応え、NIKEはついにダンクを往年のカレッジカラーで復刻・販売することになった。
ダブルネーム商法を得意とする裏原宿ブランド勢は、これらのシューズに別注をかけた限定品を展開。特別なスニーカーの発売日になると、口コミで情報を得た裏原宿キッズが集結し、ショップの前では入店のための整理券を求め、早朝から大行列ができるような状態になった。
あまりに過剰なブームに対する反動からか、1998年頃になると裏原宿キッズの間で、にわかに往年のローテクスニーカーの人気も高まりはじめ、特にCONVERSEのオールスターやワンスターが再び注目を浴びるようになっていった。
ノームコアスタイルから発展した
ダッドスニーカーブームが続く。
1990年代後半から2000年代にかけては、世界中でアップル社の製品を信奉する者が増えるが、アップルの創業者であるスティーブ・ジョブズのファッションセンスにも耳目が集まった。ジョブズは生前、10年以上にわたって常に同じ服装をしていることで有名だった。〈ISSEY MIYAKE イッセイミヤケ〉のハイネックセーター、〈LEVI’S リーバイス〉の「501」、〈LUNOR ルノア〉の丸メガネ、そして2006年に発売された〈NEW BALANCE ニューバランス〉のハイテク系スニーカー、「M992」である。
ヒッピー出身で、世俗の既定路線から逸脱したユニークな発想に富むスティーブ・ジョブズ。彼が常に同じ格好をしていたのは、着る服について悩むことに費やす時間を節約するためだったと言われているが、2013〜4年頃になると、ニューヨークの知識層を中心として、スティーブ・ジョブズの服装にインスパイアされたノームコア(NORMAL +HARDCORE=究極の普通)というスタイルがトレンドとなる。
(→〈NEW BALANCE〉の「992」に関する記事はこちら)
派手な柄物や先進的なデザインの服を避け、オーソドックスな形と色の服を選択するノームコアスタイルでは、ジョブズに倣ったNEW BALANCEのM992や、NIKEが1972年から販売しているベーシックなランニングシューズである「CORTEZ コルテッツ」、また1973年に発売されたadidasのテニスシューズ「Stan Smith スタンスミス」などの名品スニーカーをコーディネートする例が多く見られた。
そして2016年頃からは、ノームコアの影響下にある新たなブームも発生。お父さんが履くような厚底でガチャガチャしたデザインのダサいスニーカーを意味する「ダッドスニーカー」を中心とするスタイルである。2017年に人気モデルやヒップホップミュージシャンがこぞって履くようになると、ダッドスニーカーの人気は加速。2018年、2019年とそのブームは継続中である。
ダッドスニーカーの人気に火をつけたのは、バレンシアガやラフ・シモンズ、グッチ、ルイ・ヴィトンといったビッグメゾンブランドだ。発端は2013年からスタートした〈RAF SIMONS ラフ・シモンズ〉とadidasのコラボラインである「OZWEEGO オズウィーゴ」だったと考えられている。2013年はまさしくノームコアが始まった頃。スティーブ・ジョブズの履いていたNEW BALANCE・M992からの刺激が、ダッドスニーカーという新しいトレンドを生み出したと考えられる。
スニーカーというファッションアイテムの魅力は、とにかく“古びないこと”に尽きるだろう。何十年も前に開発されたモデルや、過去の様々なストリートスタイルの象徴となったモデルであっても、2019年現在の服にコーディネートして違和感が生じることはない。メーカー側も、毎年次々と最新モデルを発表する一方、往年の名作と呼ばれる定番商品を大事に売り続けている。一度は倒産したメーカーが、市場の声を受けて復活する〈CONVERSE コンバース〉のような例もある。
廃れるということを知らないスニーカーは、今後も増殖し続けることだろう。スニーカーの歴史に新たに加えられる新規開発モデルを追うのもいいが、過去のアーカイブに目を向け、大昔から売られ続けている自分好みの一足を発見するのも、スニーカー楽しみ方の一つなのである。
Text by Seijiro Sato