adidas
スポーツからストリートファッションまで。
1949| HERZOGENAURACH,GERMANY | Adolf Dassler
スポーツのみならず、ストリートファッションと切っても切れない関係のスポーツカンパニー、〈adidas アディダス〉。この世界的なブランドは、靴商人の息子であったアドルフ・ダスラーとルドルフ・ダスラーが1924年に始めた「ダスラー兄弟商会」を前身としている。
職人気質だった弟・アドルフと商才に長けていた兄・ルドルフの協力体制により、ランニングやサッカー向けのシューズを製造販売していた同社。1928年のアムステルダム・オリンピックや1936年のベルリン・オリンピックにおいて同社のシューズを履いた陸上選手が金メダルを獲得するなど、ドイツ国内で高い評価を得ていたという。
しかしながら1949年、それぞれの経営方針の違いにより、この兄弟は袂を分かつこととなる。弟のアドルフ・ダスラーは、自らの名前をもとに〈adidas アディダス〉を設立。ちなみに兄のルドルフ・ダスラーは〈ruda ルーダ〉というブランドを独自に開始。この会社がのちの〈Puma プーマ〉となることになる。
なお現在ではアディダスの象徴となっている3本ラインは、もともと補強としての意匠だったが、創業当初に同じく3本線を使用していたフィンランドのスポーツブランドであるカルフ社からその権利を買い取ったのだという。
1950年にはサッカーシューズ「Samba」をリリース。丈夫な牛革のアッパーと柔らかい羊側のライニングを使い、トゥガードも備えたこのシューズは、ドイツ代表チームに提供され、1954年のスイスワールドカップでの優勝に大きく貢献。アディダス製のサッカーシューズの評判は世界中に知れ渡ることとなる。これ以降アディダス定番のシューズとなったサンバは、現在までに全世界で3500万足以上を売り上げているという。
1965年には全仏オープンでのロバート・ハイレットの活躍を記念したテニスシューズ「HAILLET ハイレット」をリリース。軽量で柔らかな革を使用し、通気口で3本ラインを表現したシンプルなルックスが人気を呼び、多くのプレイヤーが愛用。ウィンブルドンで初優勝を飾ったスタン・スミスもこのモデルを履いていたことにアディダス社は注目し、彼との間にシグネチャー契約を結ぶ。そのため、このシューズは1977年ごろまで「HAILLET/STAN SMITH」のダブルネームを冠することに。「STAN SMITH スタンスミス」と名前が改められて以降も、時代ごとにシュータン部分に描かれたスタン・スミス氏の似顔絵やロゴデザインが異なっているというのは、マニアには有名な話だ。
そして、1969年にバスケットシューズ「SUPERSTAR スーパースター」が誕生、NBAチームのサンディエゴ・ロケッツが着用したことで有名に。誕生からしばらくするとこのモデル最大の特徴であるシェルトゥも施されるようになり、多くの選手がアディダスを着用していたボストン・セルティックスが1974年に優勝すると、NBAの選手の75%以上がアディダス・スーパースターを着用している時期もあったというほどの人気モデルに。80年代にはヒップホップグループ、RUN-DMCが紐を外してルーディーな着こなしを披露しながら「マイ・アディダス」という曲をヒットさせ、再ブレイク。それ以降、ストリートファッションには欠かせないスニーカーとなった。
1973年には、ランニングブームを受けてクロスカントリー向けランニングシューズ「Country カントリー」を発売。野原などの悪路にも対応するため、トゥやヒールまで施されたアウトソールや、クッション性を高めるために硬さの異なるEVAを組み合わせたミッドソールなど、当時の最先端技術を結集させたこのシューズは、多くのランナーたちから支持を集めた。
いわゆるハイテクシューズの分野では、〈NIKE ナイキ 〉や〈Reebok リーボック〉に遅れを取っていたアディダスだが、ファッションアイコンとしても知られるラッパー、カニエ・ウエストにデザインを依頼。2015年にハイカットの「YEEZY BOOST 750 イージーブースト750」とローカットの「YEEZY BOOST 350 イージーブースト350」がリリースされるや否や、ストリートラグジュアリーと絶妙にマッチするルックスでスニーカー市場でも稀に見るプレミアを記録。ピーク時には10倍以上の価格で取引されることもあり「投資対象としてのスニーカー」という社会現象を巻き起こすほどになった。